「今後の日本の衰退」関連の見聞がウンザリする

 

少し前位から

「人口減少に端を発して、2020年以降どんどん日本が衰退していく」

っていう関連の書見がSNSやらストリーミングサイトで多く見られるようになってきた。

 

実際、

「2020年 日本 衰退」

なんてググると、amazonでそれ関係の本がたくさん販売されてて、しかも割と売れているらしい。

なんとも夢が無い物が売れるなあと思いつつも、結局そういう事に興味がある人間が多くいるという市場を認めざるを得ない。

事実、世界的に見ても日本の先進国感はほぼ失墜したなという感覚も確かにある。

 

件に関して、個人的な見解は「考えても無駄」という結論に至るので書籍も読まないし、それによって自分の生き方が変わるなんてことは多分無いので、こういうテイストの書見見ると正直ウンザリしてきてる。

いや、別に見て見ぬふりしてるわけでもないんだけど、結局先の「考えるだけ時間の無駄」という結論に達してしまうから。

 

 

悩むのは時間の無駄

結論から言うと、未来を悲観して悩んだり疲弊するのは無駄。

例えば30年前の人間が今現在の世界を想像していたかと言えば絶対に有り得ないと思うし、どれだけ準備しても未来がどうなるか?なんてことは誰にも分からない。

むしろ今のほうが圧倒的なスピードで情報がアップデートされていくような世界であり、明日には既存の情報が塗り替えられている可能性だってあるくらいなので、予想はあくまで予想でしかない。

人口減少は止む無しというのもすごく分かるけど、じゃあどうするかってだけの話で。

 

考え方の問題もあって、ネガティブな傍観者になるか?ポジティブな介入者になるか?っていうのもある。

恐らく件に関してネガティブな発想しかできないなら前者なんだと思う。

終わるものがあれば始まるものもある。未来を自分で変えていける人達はそう考える。

新しいビジネスが生まれたり、新しい考えが生まれたり、その未来にどうやったら幸せを掴めるか、考えている。

分かりやすい話で言えば、恐らくこの問題がざわつき始めた時点で件に関する書籍を書いて販売すれば儲かる。ということを感じ取り、結果として「日本の衰退」に関わる書籍で利益を生んでいる。分母は勿論傍観者側の人間であり、見事そこに対してマーケティングを成功させる。人間を動かすのは感情だ。

 

現実はきっと厳しいかもしれない。でも夢が見られないわけじゃないし、だからって不安に苛まれながら生きるのも御免だ。

不の感情が人間を支配するとき、思考は割とミクロになってしまう。でもそうじゃなくて、世界は今だけが不幸なわけでもないし、大変な時なんて過去にも未来にも必ず存在する。

マクロって言ってもスケールがでかいので現実味にかけるかもしれないが、未来は結局自分次第だ。誰かのせいでもない。なぜなら自分の幸せは自分にしか決められないからだ。根本を忘れてはいけない。

この地球の長い歴史の上で曲折を繰り返しているだけの話であり、そりゃ良い時も悪い時もあるでしょう。僕たちはプログラムされた機械ではない。誰かが予見した系譜通りに生きるなんてことは有り得ない。 先の事など誰にも分からないから、マクロとミクロの両方をちゃんと考えてどうすれば自分が幸せなのか、今思う事や感じる事を精いっぱいやる方が未来のためだ。

結局他から見て幸せかどうか?ということの方が率先されているようなステレオタイプが氾濫している現代なので、簡単に生活水準を下げたら幸福度は上がるかも。できれば、の話だが。

 

傍観者or介入者

高齢化社会は日々加速している中で、それを痛感している場所がある。自分が住んでいる場所で加入している自治体だ。田舎では行政が運営するのとは別に、同地区の小さな部落で更に細分化した自治体に半強制的に加入させられる。任意とはいうものの、そこで営みを続けていくからにはご近所との付き合いも非常に重要であり、加入しないという選択肢はほぼ無い。

僕が住む場所は田舎の里山で、高齢者も多い。案の定、月例の会議に出席するのは高齢者が大半であり、その分考え方も古いのは否めない。近隣では、来年40歳の僕が一番の若手であり、考え方の違いに疲弊することも確かにある。高齢者相手にコンセンサスを得るのは想像しているよりも難しい。

最初はなんて非効率なのだと思った。運営にもお金が必要だし、年齢が離れている分こちらの常識は通じないし、それに時間を割く意味があるのかと思ったこともあった。

だが、そこで営みを続ける中で次第に相手の人間や考え方が分かり、自分も知ってもらうことで、その中で自分がどうやって立ち回ればよいのか、どういう発信をすれば既存の考え方にも敬意を払いつつ自治会を良く変えていけるか、自分の役割が明瞭になってきた。コミュニティの基本は相手を受け入れることも大きなテーゼであり、自我を出すだけだと成立しない。あの時すべてが無駄だと思って何もしなければきっと今は無いし、僕たちは人間なので協力や歩み寄りもできるのだ。

悲観的に捉えれば未来を創生することはきっとできない。仮に表題のような未来が訪れたとしても、シニカルに「ほらみろ、だから言ったじゃないか、俺は分かってたんだ」なんて生き方をしたくない。俺には関係ないなんてことを、言いたくない。誰でも寄り添えるなんてことは思ってないけど、共創はしていける。そもそも組織は色んな価値観で初めてバランスが取れるものだと思う、適材適所、担うものも違う。

 

ルターは言った。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」

ちょっとスピリチュアルな気もするが、僕はこの言葉をとても気に入っている。

 

まあなんだか固くなってしまったけど、あまり悲観的に考えず、自分から未来を作っていくことが重要なんじゃないのかな、と。

子を持つ親としては、なんとしてでも、少しでも幸せな世界を用意してあげたいと願うばかりだ。

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