師の言葉

 

昨日付けて退職した雨ことばカフェだが、前記の通りオーナーは普段全く怒ることはなく、いつも穏やかであった。

 

いや、内心は分からないが、どんな失敗をしても

「大丈夫、なんとかなるよ」

というのが口癖だった。

 

 

 

実はそれまでの僕の飲食界における先入観として「厳しい世界」というものがテーゼとしてあり、この五年間を振り返っても厳しいのキの字も見つからない。

怒号もなにも、まず怒らないというのが人間として信じられない。

 

なんというか、そういう意味では狐につままれたような気分であった。

 

 

 

そんなオーナーに一度だけ叱られたことがある。

 

たしか就職して暫く調理の補助ののち、メインシェフとして独り立ちした時の事。

 

その日はなぜか飛び込みの客足が絶えず、まだまだ不慣れな僕は狼狽しながらもなんとかついていくような感じだった。

オーナーは僕の補助として、かかってくる仕事を少しづつ応援してくれたが、どうやってもオーダーに追いつけず、仕舞いには、

 

「無理・・・」

「絶対出来ない・・・」

「厳しい・・・」

 

と、ネガティブな事ばかりを口にした。

そうやって言えば、オーナーがポジションをチェンジしてくれるだろうと、確か思っていた気がする。

 

最初は「大丈夫」と例の如く言っていたオーナーだったが、いい加減終わらない僕の小言を一喝した。

 

「厳しい厳しいと言いながら作った料理は、本当に『厳しい』味になっちゃうよ!!」

 

 

たったそれだけの叱咤だったが、全身が鞭で打たれたような衝撃を受けた。

 

その後なんとか波を超え、落ち着いたころにオーナーは穏やかな口調でこう付け加えた。

 

「どんなに忙しくても冷静にやろうよ。追い込まれた時こそ楽しくやろう。」

 

 

その日の夜、オーナーにメールで謝辞を送った。

後にも先にも、オーナーに怒られたのはこの日だけだった。

だが確かにその日で景色が変わった。

 

 

それまで自分は穏やかな人間だという自負があったが、ただの思い込みだった。

 

それから、どんなに忙しくてもオーナーとジョークを言いながら仕事をした。

いつも笑いが絶えない厨房だった。

 

おかげで、仕事に限らずどういう状況でも冷静になれるようになった。

笑って次を考えるようになった。

毎日をいかに楽しく過ごせるかを考えるようになった。

 

 

僕がオーナーから頂いたものは、調理のスキルや知識だけではない。

一人の人間として、一人の男として、器量を学んだ。

 

 

 

本人は覚えてないかもしれないけど、宴席でオーナーが酔っぱらうと口にする言葉がある。

 

「影山君は、どういう状況でも絶対になんとかする力があるから、どんなことが起きても絶対大丈夫だよ」

 

 

くじけそうなときはこの言葉を思い出して、また前を向くようにしている。

 

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